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essay

愛犬のごはんの話から、高文脈文化について

ある日の妻との会話から、「高文脈文化」について思いを巡らせてみました。

愛犬のドックフードの話から…

ある日、僕は妻に対して突然「ハチニー?」と聞いた。妻は、「うん」と答えた。

実はその頃、愛犬のドックフードを別の製品に切り替えるため、1回のごはんに入れる新しいフードの割合を、徐々に増やしていた。要するに「ハチニー?」とは、「今日からドックフードの割合は、新しいのと古いので、8:2の割合でいい?」ということだ。

この会話のあと、ふと「よくこんな会話が成立しているものだな」と感心した。そして学生の頃に、現代文か何かで「高文脈文化」という言葉を知ったことを思い出した。

日本は高文脈文化?

高文脈文化とは、大雑把に言えば、会話において言語で発した内容よりも多くのメッセージをやり取りしている文化のことを指しており、その反対で低文脈文化とは、発した言葉どおりのコミュニケーションを行っている文化のことを指している。

日本は「ツーカーの仲」(もはや死語だが)といった言葉があるくらい、典型的な高文脈文化の国だ。例えば、夫が「母さん、あれ」と言っただけで、妻は「はいはい」と言いながら新聞を渡す、といった情景だ。高文脈文化では、言葉以外の要素が会話を成立させている。「空気を読む」といった際の「空気」も、その1つかもしれない。

一方、日本と比べて低文脈文化である英語圏について考えてみれば、主語・動詞などをしっかりと示すことからもわかるように、必要な情報はしっかりと会話に盛り込んでいる。多様なルーツをもつ人々が集まり、コミュニケーションをする必要があったからなのだろうか。

もちろん英語においても、わかりきった内容を代名詞(itなど)で表現したり、慣用句において語句を省略することもある(例えば”Oh my gosh(god)”を”gosh!”と略したりする)。しかし、日本の「ツーカーの仲」にはとても及ばない。

高文脈文化・低文脈文化は、どちらが善い悪い、というものではないだろう。しかし考えてみれば、日本における行き過ぎた配慮、いわゆる「忖度」なんかは、まさに高文脈文化における弊害なのだと思う。

文脈に甘えすぎないように気を付けたい

妻と過ごした年月を重ねるごとに、「これくらいわかってくれるだろう」という、一種の甘えを自分が持っていることに、ふとした瞬間気づく。

もちろん、「我が家は低文脈文化とする!」などと声高に謳うつもりはない。ある程度の、信頼に基づいた「ツーカーの仲」は必要だろう。

ただし、それが「妻ならわかって当然」になってしまった途端、それは押しつけだ。そうならないよう、気を付けて生きたいものだ。